「間」
旧字体は「閒」である。

白川静『常用字解』
「会意。門の中に月影のある形であるという解釈は誤りである。金文の字形には、門の上に肉を置く形や門の中に外をかくものがある。祖先を祭る廟の門に肉を供えて祈る何らかの儀礼を示す字であるらしく、内外をへだてるという意味がある。“あいだ、ま、すきま” の意味のほかに、“しずか、やすらか”の意味にも使う」

[考察]
形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。門+肉の形から、祖先を祭る廟の門に肉を供えて祈る儀礼→内外をへだてるという意味を導く。
字形から意味を導く方法は根本的に誤りである。意味は言葉の意味であって、字形の意味ではない。形は何とでも解釈がつく。言葉をどのような意匠で図形に表現したかという視座から漢字を見ないと、恣意的な解釈に陥る危険がある。間は確かに「へだてる」という意味はあるが(離間の間)、内外を隔てるという意味ではない。実際の使い方を古典で確かめよう。次の用例がある。
 原文:十畝之閒兮 桑者閑閑兮
 訓読:十畝の間 桑者閑閑たり
 翻訳:十畝の畑の中で 桑摘み女はのびやかに――『詩経』魏風・十畝之間

間は空間的に二つの物のあいだという意味で使われている。この意味の古典漢語をkăn(呉音ではケン、漢音ではカン)という。二つの物のあいだを図示すれば「―▯―」の形である。▯に視点を置くと「あいだ、すきま」のイメージ、両側に視点を置くと←▯→の形、つまり「二つに分かれる」のイメージになる。前者が中間の間(あいだ)、間隙の間(すきま)の意味、後者が離間の間(分け隔てる)の意味である。
kănという語は「二つに分ける」「隙間があく」というコアイメージがある。この語の視覚記号は特に「すきま」に焦点を当てて図形化された。これが閒である。門のすきまから月が見える情景を設定したもの。「門+月」という舌足らず(情報不足)な図形はこのように単純に解釈してよい。門を廟の門、月を肉と見ると祭祀儀礼の一幕となってしまう。これでは「二つの物のあいだ」というkănの意味とのつながりを見失ってしまう。