「既」
正字(旧字体)は「既」である。

白川静『常用字解』
「会意。皀と旡キとを組み合わせた形。食器(皀)を前にして、後ろを向いておくび(げっぷ)をする人の形で、食事が終わることをいう意味から、“おわる、すでに”の意味となる」

[考察]
字形から意味を求めるのが白川漢字学説の方法である。形声の説明原理がなく、すべて会意的に説く。皀(食器)+旡(げっぷする人)→食事が終わるという意味を導き、「おわる・すでに」へ展開させる。しかし「おわる」という意味はない。
旡は明らかに音符だが、白川は形声ではなく、あえて会意とした。
形声の原理とは言葉の視点に立ち、語の深層構造を捉えて意味を説く方法である。白川漢字学説は言葉という視点がないからすべて会意となる。しかし形から意味を求める手法には限界がある。恣意的解釈に歯止めがきかないからである。
意味は字形から来るものではなく、古典で使用される文脈にある。文脈から読み取れるものが言葉の意味である。文脈を離れては意味はない。既は次の用例がある。
①原文:日有食之、既。
 訓読:日、之を食する有り、既(つ)くせり。
 翻訳:日食があって、[日が]すっかりなくなった――『春秋』桓公三年
②原文:既見君子
 訓読:既に君子を見る
 翻訳:間もなく殿方に会えました――『詩経』周南・汝墳

①は食べ尽くす(すっかり尽きる)の意味、②は「すでに」の意味で使われている。この意味をもつ古典漢語がkiər(呉音ではケ、漢音ではキ)である。これに対する視覚記号が既である。これはどんな意匠をもつ図形か。「旡キ(音・イメージ記号)+皀(イメージ補助記号、また限定符号)」と解析する。旡は欠の鏡文字である。鏡文字は正反対のイメージを表す。欠は体をへこませて欠伸をする人の形で、「へこむ」というイメージがある(後に「欠」で詳述)。旡は腹をふらませてげっぷをする人の形で、「いっぱい詰まる」「いっぱい満ちる」というイメージがある(3「愛」を見よ)。皀は器に盛ったごちそうの姿で、食事の場面を作る働きをする。場面を設定することによって何が満ちるかのイメージを補助する。かくて既はごちそうを腹いっぱい食べた情景を設定した図形である。腹に視点を置けば「満ちる」のイメージだが、器に視点を置けば「尽きる」「尽きてなくなる」のイメージである。食べ物は器から腹に移動しただけである。「満ちる」と「尽きる」は移動によって意味が入れ代わったと見ることができる。
ちなみに既の「いっぱい満ちる」のイメージは慨・概や、灌漑の漑にもある。「尽きる」のイメージは墍(つきる)にもある。既自体が訓では「つきる」と読む。皆既日食の既はこれである。