「喜」
白川静『常用字解』
「会意。壴と口とを組み合わせた形。太鼓の形である壴に、祝詞を入れる器のㅂをそえた形。神に祈るとき、太鼓をうちながら歌い舞ってお祭りをすると神は喜ばれるので、喜はもと神を楽しませ喜ばせるために太鼓をうって祈るの意味であった」
[考察]
字形から意味を求めるのが白川漢字学説の方法である。壴(太鼓)+ㅂ(祝詞を入れる器)→神を楽しませ喜ばせるために太鼓をうって祈るという意味を導く。
太鼓と祝詞からなぜ神を喜ばせる意味が出るのか不可解である。そもそもなぜ神を喜ばせるのか。喜には上のような意味はあり得ない。意味とは言葉の意味であって具体的な文脈から判断するものである。言葉の使い方が意味である。古典で喜の用例を見てみよう。
原文:既見君子 云胡不喜
訓読:既に君子を見る 云胡(なん)ぞ喜ばざらん
翻訳:殿方にお会いした今 この嬉しさいかばかり――『詩経』鄭風・風雨
喜は「嬉しがってよろこぶ」の意味。人が喜ぶのであって、神が喜ぶのではない。日本語の「よろこぶ」に当たる語に喜のほか悦・歓・欣などがあるが、それぞれイメージが違う。嬉しがって(はしゃいで、にこにこと)よろこぶことを古典漢語でhiəg(呉音ではコ、漢音ではキ)という。これに対する視覚記号が喜である。
喜は「壴+口」に分析できる。壴は太鼓の鼓の構成要素で、太鼓を立てた形。太鼓という実体に重点があるのではなく、その楽器のイメージに重点がある。太鼓はにぎやかな音を出す楽器である。ちなみに樹立の樹にも壴が含まれているが、「立てる」というイメージが用いられている。にぎやかな音声のイメージを用いたのが喜である。「壴(イメージ記号)+口(限定符号)」を合わせて、にぎやかに声を立ててはしゃぐ状況を暗示させる。この図形的意匠によって、「嬉しがって(はしゃいで、にこにこと)よろこぶ」の意味をもつhiəgを表記する。
「壴+口」という図形は舌足らずである。それ以上の情報は読み取れない。白川説では口を「くち」と見ないで祝詞を入れる器と見るので、夥多とも言える情報を引き出した。しかし導かれる意味は使用例がなく、推測的・想像的な域を出ない。「口」の祝詞説も客観的な証拠はない。そもそも祝詞は口で唱える言葉であって、これを器に入れる事態は考えにくい。喜における「口」は祝詞とは関係がなく、意味領域と関わる限定符号と見るべきである。「よろこぶ」は精神の領域であるが、声を立ててはしゃぐという場面作りのためめに「口」が限定符号の役割を果たしているのである。
白川静『常用字解』
「会意。壴と口とを組み合わせた形。太鼓の形である壴に、祝詞を入れる器のㅂをそえた形。神に祈るとき、太鼓をうちながら歌い舞ってお祭りをすると神は喜ばれるので、喜はもと神を楽しませ喜ばせるために太鼓をうって祈るの意味であった」
[考察]
字形から意味を求めるのが白川漢字学説の方法である。壴(太鼓)+ㅂ(祝詞を入れる器)→神を楽しませ喜ばせるために太鼓をうって祈るという意味を導く。
太鼓と祝詞からなぜ神を喜ばせる意味が出るのか不可解である。そもそもなぜ神を喜ばせるのか。喜には上のような意味はあり得ない。意味とは言葉の意味であって具体的な文脈から判断するものである。言葉の使い方が意味である。古典で喜の用例を見てみよう。
原文:既見君子 云胡不喜
訓読:既に君子を見る 云胡(なん)ぞ喜ばざらん
翻訳:殿方にお会いした今 この嬉しさいかばかり――『詩経』鄭風・風雨
喜は「嬉しがってよろこぶ」の意味。人が喜ぶのであって、神が喜ぶのではない。日本語の「よろこぶ」に当たる語に喜のほか悦・歓・欣などがあるが、それぞれイメージが違う。嬉しがって(はしゃいで、にこにこと)よろこぶことを古典漢語でhiəg(呉音ではコ、漢音ではキ)という。これに対する視覚記号が喜である。
喜は「壴+口」に分析できる。壴は太鼓の鼓の構成要素で、太鼓を立てた形。太鼓という実体に重点があるのではなく、その楽器のイメージに重点がある。太鼓はにぎやかな音を出す楽器である。ちなみに樹立の樹にも壴が含まれているが、「立てる」というイメージが用いられている。にぎやかな音声のイメージを用いたのが喜である。「壴(イメージ記号)+口(限定符号)」を合わせて、にぎやかに声を立ててはしゃぐ状況を暗示させる。この図形的意匠によって、「嬉しがって(はしゃいで、にこにこと)よろこぶ」の意味をもつhiəgを表記する。
「壴+口」という図形は舌足らずである。それ以上の情報は読み取れない。白川説では口を「くち」と見ないで祝詞を入れる器と見るので、夥多とも言える情報を引き出した。しかし導かれる意味は使用例がなく、推測的・想像的な域を出ない。「口」の祝詞説も客観的な証拠はない。そもそも祝詞は口で唱える言葉であって、これを器に入れる事態は考えにくい。喜における「口」は祝詞とは関係がなく、意味領域と関わる限定符号と見るべきである。「よろこぶ」は精神の領域であるが、声を立ててはしゃぐという場面作りのためめに「口」が限定符号の役割を果たしているのである。
コメント
コメント一覧 (3)
つまり、神様を喜ばせる太鼓を叩いて神と交信する様子なのか?又は一方、太鼓を叩いて神様を喜ばせる神事の賑やかなイメージと口(マウス)との組合せと解釈するかで大きく違うとは思われない。しかし、敢えて個人的な意見を申せば「太鼓」とは神との交信を行う神聖な祭器であって、その祭事の様子を単に「太鼓」に限定し、賑やかなイメージとする貴殿の解釈に寧ろ不自然さが残る。祭事は太鼓ばかりで行われる訳ではないからだ。太鼓は祭事、神へ「喜び」を伝える楽器であることは事実であり、又、祭りは神に感謝を伝え「楽しませる」行為であるならば、やはり再び白川説である、「口」=「祝詞の器」が浮上してくる。しかし、その様子そのものよりも、人間の「歓喜」を太鼓を叩いて神に伝える時の人の「感情」と口〈マウス〉を下に加えた形であるとしても良く、さして大きな違いは起こらない。少なくとも一般の勉学者にとっては。只、立ち返って甲骨文字、金文を今一度見て欲しい。口の部分は、どう見ても人間の口〈マウス〉の形には見えないということだ。たまたまこの字は記号として口〈マウス〉の意味で使っているというのも曲解で、詩経にある一例を持って論説するにも無理があろう。
意味もなく太鼓を楽しみに打つなどということはあり得ない。太鼓は立てて打つのであるし、祭りの太鼓は、豊穣を祈念し、又神を喜ばし、喜び伝える儀である。白川説に寄って何ら理解に矛盾は生じないと思うが?