「義」

白川静『常用字解』
「会意。羊と我とを組み合わせた形。我は鋸の形。羊を鋸で截り、犠牲とすることをいう。儀式のときに供えるいけにえには、羊を使うことが多く、鋸で二つに切り離して供えた。それは羊の内臓をも含めて、すべて犠牲として完全であることを示すためで、毛なみや角・蹄などに欠陥がないだけでなく、内臓にも何らの病気も無いことを示すためであったと思われる。それで神などに供える犠牲としての条件においてすべて欠陥がないことを“義(ただ)しい” という」

[考察]
形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法である。「羊+我(鋸)」という舌足らず(情報不足)な図形から、夥多な情報を読み取り、「神に供える犠牲としての条件において欠陥がないこと」、これが義しいという意味とする。ここで疑問。毛並み・角・蹄などに欠陥がない犠牲として完全な羊であることを示すために、なぜ鋸で二つに切り離すのか。一頭のまるごとの羊を供えるのが普通ではあるまいか。鋸で真っ二つにするという事態が考えにくい。字形から意味を読み取るのは無理である。
言葉という視点が全くないのが白川漢字学説の特徴である。意味は言葉にあって字形にはない。これは言語学の常識であろう。甲骨文字は読み方が分からないから、言語学に乗らないのであろうか。しかし意味を云々する限り、それは言葉の世界である。言語学から外れることは理論的にできない。
意味は言葉の意味であり、言葉が具体的文脈で使われる、その使い方である。文脈を離れては意味はない。義は古典でどのように使われているかを見てみよう。
①原文:不義從式
 訓読:不義に従ひ式(のっと)る
 翻訳:悪いやつらに従い倣う――『詩経』大雅・蕩
②原文:見義不爲無勇也。
 訓読:義を見て為さざるは勇無きなり。
 翻訳:正義を見ながら実行しないのは勇気がないからだ――『論語』為政

①は形・性質などが良い意味、②は人としてなすべき正しい筋道の意味で使われている。戦国時代の『韓非子』に「義なる者は其の宜を謂ふなり」とあり、「義は宜なり」は古くからの語源意識である。ngiar(呉音・漢音ではギ)という言葉のコアイメージは「形がきちんと整っている」ということである(294「宜」を見よ)。「形がきちんと整っている」というコアイメージから「形や性質などが良い」という意味が実現される。言葉の深層にあるイメージが表層に現れる、つまり具体的文脈で使われる際に実現されるのが意味である。
ngiarを表記する視覚記号として考案されたのが義である。これは「我(音・イメージ記号)+羊(限定符号)」と解析する。我はngarの音でngiarと類似するから、この記号が選ばれた。音声上の類似だけではなく、言葉の意味のイメージ、すなわちコアイメージをも表す働きがある。音とイメージの双方の表出機能をもつから「音・イメージ記号」と呼ぶ(音符、発音符号とは違う)。
では我とは何か。これはぎざぎざの刃のついた武器を描いた図形である(139「我」を見よ)。これを鋸と見て、実体にこだわると、羊を鋸で斬る意味になってしまう。漢字の造形法は実体よりも形態や機能に重点がある。武器の形態から「ぎざぎざ」というイメージが抽象化される。ぎざぎざは∧の形が連鎖して∧∧∧の形を呈するものであるが、基本は∧の形、尖った形、角のある形である。これはᒣの形や、ᒪの形でもよい。古典漢語の言語感覚では角のある形は美観(美意識)につながることが多い。方形(四角形)の方は方正(正しい)の意味になる。圭(三角形、∧の形)から佳人の佳が生まれる。「かど」を意味する廉には清廉(かどめがあって正しい)の意味を派生する。我は∧の形のイメージから娥(美人)という語が生まれる。不義の義(良い)、正義の義(正しい)もこれである。
さて義の図形的意匠は何か。羊は比喩的限定符号である。古代では羊は吉祥シンボルであった。だからめでたいもの、形の美しいものの代表として選ばれた。かくて義は形が美しく整っている状態という意匠になっている。形がきちんと整っていることは筋がきちんとしてゆがみのない状態である。ここから筋が通って正しい、また、正しい筋道という意味も生まれる。これが②の意味である。