「宮」

白川静『常用字解』
「会意。宀は宮廟などの建物の屋根の形。呂はもと吕とかかれ、宮室が前後に連なっている平面形であるから、宮は屋根のあるかなり大きな建物をいう。宮はもと霊の祀られている廟、宮廟であった」

[考察]
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。宀は廟の屋根の形で、宮は宮廟の意味とする。宮と廟は同じものと見るのであろう。宮を廟とする根拠は吕にはなく宀にあるようである。しかし宀は一般に屋根の形であって、廟の屋根に特定できない。吕は宮室が前後に連なっている形だというから、「霊の祀られている廟」という意味はどこから来るのか分からない。
字形から意味を導くのは無理がある。意味は字形にあるのではなく言葉にある。言葉が使用される具体的な文脈にある。意味は文脈から判断し把握されるものである。古典では次の用例がある。
 原文:期我乎桑中 要我乎上宮
 訓読:我と桑中に期し 我を上宮に要(むか)ふ
 翻訳:私と桑畑でデートをし 私を建物の上に迎えてくれた――『詩経』鄘風・桑中

宮は奥深い大きな建物(人の住む大きな建物)の意味で使われている。天子や王の住む御殿(宮殿・宮廷の宮)、先祖を祭る奥深い建物(宗廟)の意味はその転義である。
この意味をもつ古典漢語がkiong(呉音ではクまたはクウ、漢音ではキュウ)であり、それを表記するのが宮という図形である。これを分析すると「呂(イメージ記号)+宀(限定符号)」となる。呂は背骨の形である。背骨という実体に重点があるのではなく、形態に重点がある。背骨は背面から見ると「▯-▯-▯・・・の形に連なる」のイメージだが、横から見ると「彎曲する」「)の形に曲がる」というイメージである。彎曲した形の体を躬という。躬は躳とも書かれ、これに呂が含まれる。また窮と竆は同じである。躳と竆に呂が含まれるのは偶然ではない。「曲がる」というイメージは「つかえて曲がる」「行き詰まる」「突き詰める」というイメージ、さらに「行き尽くすところまで来る」「最後のどん詰まりに来る」というイメージに転化する(324「究」を見よ)。窮極は究極と同じで、「最後のどん詰まりに達する(きわまる)」という意味である。
『説文解字』では宮を「躳キュウの略体+宀」としているが、「呂+宀」としても十分成り立つ。呂は「)の形に曲がる」というイメージから「ぎりぎりの所まで行って、つかえて止まる」というイメージに転化したと考えてよい。したがって宮は奥深くまで進んでやっと最後の所に達するほど大きな建物を暗示させる図形である。窮極の窮(きわまる)と同源の言葉である。