「凶」

白川静『常用字解』
「象形。文身(入れ墨)を描いた胸の形。凵は胸の形。×は朱色などで描いた文身の文様の形。人が死んだとき、その胸に×形の文身を描き、悪い霊がその死体に入りこまないように呪禁(まじない)を加えることを凶という」

[考察]
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。入れ墨をした胸→悪霊が死体に入らないように呪禁を加える意味、それから「わるい、まがごと」の意味になったという。
しかし字形の解剖に納得がいかない。凵がなぜ胸の形か。×がなぜ朱色の入れ墨の文様か。恣意的解釈にしか見えない。また、なぜ死体や悪霊が出てくるのか。必然性がない。
意味は字形にあるのではなく言葉にある。言葉が使用される文脈にある。文脈で実現されるのが意味である。これ以外に意味は求めようがない。凶は古典で次の用例がある。
①原文:日月告凶 不用其行
 訓読:日月凶を告げ 其の行を用ゐず
 翻訳:日と月は不吉を知らせ 正しい運行を外れている――『詩経』小雅・十月之交
②原文:我生之後 逢此百凶
 訓読:我が生の後 此の百凶に逢へり
 翻訳:我が人生のこれからというとき どっと凶事にぶつかった――『詩経』王風・兎爰

①は運が悪い意味で、吉の反対。②は不吉な現象や事態(異変、災害)の意味である。吉と凶という対の概念(観念)を古典漢語ではどういうイメージで捉えたか。『釈名』(漢代の語源辞典)では「吉は実なり。善実有るなり」「凶は空なり。空亡に就くなり」と語源を説いている。要するに吉は「満ちる(いっぱい詰まる)」、凶は「空しい(空っぽ)」のイメージで捉えられている。「満ちる」は「まこと」(真実)につながり、「空っぽ」は「うそ、偽り」(虚)につながる。「空っぽ」「空しい」のイメージは心理的には不安な感覚、社会的には良くないこと、めでたくないこと、まがまがしいこと(異変、異常)を喚起させる。異変が起こりそうでめでたくない(運が悪い、不吉である)ことを古典漢語ではhiung(呉音ではクまたはクウ、漢音ではキョウ)という。これに対する視覚記号として凶が考案された。
凶はどんな意匠をもつ図形か。吉が「いっぱい詰まる」というコアイメージをうまく図形化したことを考慮すると(305「吉」を見よ)、その反対である凶の意匠も想像がつく。凵はくぼんだ所(空っぽな所、穴など)である。×は二つのものが交わる(交差する)ことを示す象徴的符号である。「凵+×」を合わせて、穴に落ち込んで絡まって出られない状況を設定した図形と解釈できる。これが凶の図形的意匠で、これによって異変が起こりそうな事態を暗示させている。hiungの深層構造にあるイメージ(コアイメージ)は「空っぽ」である。「いっぱい満ちる」は満ち足りる→良いという意味と結びつくが(これが吉)、その反対の「空っぽ」は「何もない」「欠けている」→悪いという意味と結びつく。意味は①②から、③作物が取れないの意味に展開する(凶年・凶作の凶)。また、④他人を損ないそうで悪い、悪者の意味が生まれる(凶悪・元凶の凶)。また⑤人を殺傷するという意味が生まれる(凶器・凶弾の凶)。
これらは「空っぽ」のコアイメージからの展開である。