「共」

白川静『常用字解』
「会意。両手にそれぞれ物を持って捧げている形。供(ささげる、そなえる)のもとの字である。共は、おそらく儀礼のときに使う呪器をうやうやしく捧げ持って、神を拝むことを示す字であろう。それで共は“つつしむ、うやうやしい” の意味となり、恭のもとの字である。左右の手をともに捧げるので、共には“ともに、とも”という意味もある」

[考察]
「両手でそれぞれ物を持って」とあるが、片手でそれぞれ物を持ち、二つの物を捧げることになる。物を捧げる行為としては、変である。図形にこだわり過ぎている。捧げるのは両手をそろえて一つの物を持ち上げることであろう。また、物を呪器とするのも疑問。供物の供から宗教の場を連想したのであろうが、うがち過ぎである。
言葉という視座がないと、字形は何とでも解釈できる。字源の前に語源的に検討することが大切である。共・供・恭はkiungという古典漢語から分化した三語である。kiungは両手をそろえて何かをする行為を表す語である。両手をそろえるというイメージを表す語は、これもkiungという。これを図形化したのが「廾(キョウ)」である。「ナ」(左の工を省いた部分)と「又」(右の口を省いた部分)を左右に並列したのが「廾」である。「両手をそろえる」というイメージを示している。
「両手をそろえる」というイメージから、両手をそろえて何かをする行為を表す言葉が生まれる。これをkiungといい、図形化して「廾」に口(甲骨)、〇(金文)、または廿(篆文)を加える。これが共で、「廾(音・イメージ記号)+口・〇、または廿(何かの物を示すイメージ補助記号)」と解析する。両手をそろえて何かの物を捧げる情景を設定した図形と解釈できる。これは共の図形的意匠であるが、後に分化する共・供・恭の使い方(すなわち意味)がこの行為の中に含まれている。この行為のうち、動作に主眼を置くと「両手をそろえて捧げる」という意味が実現される(これを後に供と書く)。捧げ持つ動作の心理面に焦点を当てると、「うやうやしい」という意味が実現される(これを後に恭と書く)。またkiungという語の根源にある「両手をそろえる」というイメージから、「一緒にそろって何かをする」という意味が実現される。これを共という記号で表す。
以上のように「両手をそろえる」というコアイメージをもつ古典漢語kiungが共・供・恭の三語に分化し、それぞれ違った意味の言葉として使い分けられた。語源的に深層構造を探ると実は一つの語であったことが判明する。
最後に共の古典における用法を見ておこう。
①原文:三十輻共一轂。
 訓読:三十輻は一轂を共にす。
 翻訳:三十本のや(スポーク)は一つのこしき(ハブ)を一緒にもつ[共有する]――『老子』十一章
②原文:可與共學、未可與適道。
 訓読:与(とも)に共に学ぶべきも、未だ与に道に適(ゆ)くべからず。
 翻訳:その人と一緒に学ぶことはできても、一緒に人道に進んでいくことはできない――『論語』子罕

①は一緒にそろって何かをする、一緒にそろうという動詞的用法、②は一緒にそろって(みんなで、ともに)という副詞的用法である。