「享」

白川静『常用字解』
「象形。古い字形では建物の形であり、上部は京と同じく望楼があり、下部はその基壇の形のようである。ここで先祖を“まつる”ことを享といい、またその祭祀を“うける”ことを享という」 

[考察]
望楼のある建物の形から、「先祖をまつる」の意味が出るというのは、必然性に欠ける。
字形から意味を導くのが白川漢字学説の特徴であるが、この方法は合理的ではない。なぜなら意味は言葉に属するものであって、字形に属するものではないからである。言葉の意味は文脈における使い方に現れる。文脈がなければ意味を捉えようがない。古典で享はどのように使われているかを見てみよう。
①原文:祭以清酒 從以騂牡 享于祖考
 訓読:祭るに清酒を以てし 従へるに騂牡セイボを以てし 祖考に享す
 翻訳:神を祭るは澄んだ酒と 赤毛の雄牛を従えて ご先祖様にお供えする――『詩経』小雅・信南山
②原文:我享其利。
 訓読:我、其の利を享(う)く。
 翻訳:私はその利益を受ける――『荘子』譲王

①は供え物をしてすすめる、また、ごちそうしてもてなすという意味、②は与えられたものを受け入れる(身に受ける)という意味に使われている。この意味をもつ古典漢語はhiang(呉音ではカウ、漢音ではキヤウ)である。これに対する視覚記号が享である。享の篆文には亯もあり、これが甲骨・金文以来の古形とされている。これの解釈につては諸説があるが、宗廟の形とした呉大澂の説がよさそうである。
宗廟だから「供え物をする」という意味が出る。このように解釈すると白川 学説と変わらない。そうではなく、なぜhiangというのかという語源の考え方、すなわち語の深層構造の探求がなければならない。古人は「享は嚮(むかう)なり」と語源を捉えている。向かうとはAとBの間でA⇄Bの形を呈することである。郷はA⇄Bの形に向かい合う(隣り合う)村であり、響はA⇄Bの形に跳ね返ってくる音(こだま、ひびき)である。また饗宴の饗はA⇄Bの形に向かい合って会食することである。このように享は郷のグループ(郷・嚮・響・饗)と同源である。では享はどんな意味か。A⇄Bの形が享のコアイメージである。Aを神、Bを人とすればA(神)とB(人)の間にやりとりされる行為が享である。B(人)に視点を置くと、物を供えて進める行為、A(神)に視点を置くと、もてなし(恵み)を受ける行為となる。享は「もてなしを与える」と「もてなしを受ける」という方向の違った二つの行為が同時に含まれているので、①と②の意味が実現されるのである。