「恭」

白川静『常用字解』
「形声。音符は共。共は儀礼のときに使う呪器をうやうやしく捧げ持って、神を拝むことを示す字で、“つつしむ、うやうやしい” の意味となる。その神を拝むときの心を示すために、共の下に心を加えて恭となる」

[考察]
字形から意味を引き出すのが白川漢字学説の特徴である。「共」の項では「両手にそれぞれ物を持って捧げている形」と解釈しているが、その物を呪器と想像したため神が出てくる。だから共は「神を拝む」ことになってしまった。そのため「神を拝む心」が恭だという。
図形的解釈と意味を混同するのが白川漢字学説の特徴である。恭はただ「うやうやしい」の意味であって、神を拝むは余計である。それは恭の意味素に入らない。
いったい意味とは何か。言葉の意味であることは言語学の常識というもの。それ以外に意味はない。言葉の意味は文脈で使われて初めて分かる。恭は次のような用例がある。
 原文:賓之初筵 溫溫其恭
 訓読:賓の初めて筵エンする 温温として其れ恭し
 翻訳:客人が宴席に着く初めは 顔は穏やかでうやうやしい――『詩経』小雅・賓之初筵

恭は丁寧で慎み深い(うやうやしい)の意味で使われている。この意味の言葉がkiung(呉音ではク、漢音ではキョウ)であり、これを表記する図形が恭である。これは共から派生した語である。共(kiung)は両手をそろえて何かの物を相手に捧げる(たてまつる、差し上げる)行為から発想された語である(349「共」を見よ)。捧げるという動作に主眼を置いた語が供(そなえる)であり、その動作の心理面に主眼を置いた語が恭(うやうやしい)である。また「両手をそろえる」というコアイメージから「一緒にそろう」「そろって(一緒に、ともに)」という用法に転じたのが共である。