「胸」

白川静『常用字解』
「形声。音符は匈。匈が胸のもとの字であった。匈は人の胸に×形の文身(入れ墨)を加えた形。人が死亡すると、悪い霊がその死体に入りこまないように朱色で×形の文身を描いて呪禁(まじない)とした。その字は凶で、それに人の全身を横から見た形の勹を加えて匈となり、さらに月(肉)を加えて胸となった」

[考察]
字形から意味を求めるのが白川漢字学説の特徴である。凶(悪霊が入りこまないように朱色で×形の入れ墨をすること)→匈(人の胸に×形の入れ墨をした形)→胸(むね)と意味を展開させる。
死体の胸に入れ墨をするという習俗が中国古代にあったのであろうか。そもそも生体反応を示さない死体に入れ墨ができるのであろうか。ただ×の印をつけただけであろうか。さまざまの疑問が湧く。なぜ朱色か、なぜ×の印か、なぜ胸かというのも疑問。すべて必然性があるとは思えない。
言葉という視座が全くないのが白川漢字学説の特徴である。言葉を無視して意味を云々することはありえない。意味は言葉に属するものであって、字形に属するものではないからである。
古典漢語では「むね」のことをhiung(呉音ではク、漢音ではキョウ)という。胸はこの言葉を表記する視覚記号である。『孟子』などに用例がある。胸は「匈(音・イメージ記号)+肉(限定符号)」と解析できる。匈は「凶(音・イメージ記号)+勹(イメージ補助記号)」と分析する。凶が言葉の深層構造に関わる記号、すなわちコアイメージを表す記号である。凶は「空っぽ」というコアイメージがある(詳しくは348「凶」を見よ)。勹は包に含まれ、「周囲から中のものを↺の形に取り巻く」というイメージを示している。したがって匈は周囲を↺の形に取り巻かれた空所、具体的には肋骨などで囲まれた胸腔を暗示させる図形である。この匈という図形的意匠でもって「むね」を表しうるが、限定符号の肉(肉体・身体の分野に限定する)を添えて胸が成立した。