「極」

白川静『常用字解』
「形声。音符は亟。亟は二と人と口と又とを組み合わせた形。二は上下の間の狭い空間。その狭い場所に人を押し込めて、前にのろいの祝詞を入れた器のᄇを置き、後ろから又(手)でその人を押しやるので、人を閉じ込めて罰する方法を亟という。亟は殛のもとの字で、刑罰として殺すの意味があり、その殺す場所が極である」

[考察]
明らかに形声文字であるが、白川漢字学説では形声の説明原理がなく、会意的に説く特徴がある。会意とはAの意味とBの意味を足した意味をCの意味とする方法である。AとBはレベルの等しい字なのでA+Bと足し算をすればよい。形声の方法はこれとは違う。Aは言葉の深層構造に関わる基幹記号、すなわち「音・イメージ記号」、Bは言葉の意味領域が何と関わっているかを示す「限定符号」であり、AとBはレベルの異なる記号であり、AとBを超えたところにCの意味を暗示させる。これが形声の原理である。

まず極の白川説を見る。亟(狭い場所に人を閉じ込めて殺す)+木→殺す場所の意味を導く。しかし「木」は意味とどう関わるかの説明がない。また「行き詰まった場所で罪人を究極して殺す」ことから「きわめる」の意味に転じたという。亟に「人を閉じ込めて殺す」という意味があるだろうか。また「極」に「殺す場所」や「罪人を究極して殺す」という意味があるだろうか。そんな意味はありそうにない。

意味とはいったい何か。「言葉の意味」であることは言語学の常識というもの。言葉が実際の文脈で使用されるときに現れるもの、言葉の使い方が意味である。文脈がなければ意味の取りようがない。
極は次のような文脈で使われている。
①原文:崧高維嶽 駿極于天
 訓読:崧高なるは維(こ)れ岳 駿(おお)いに天に極(いた)る
 翻訳:高くそびえる御岳 大いに天まで届く――『詩経』大雅・崧高
②原文:豈曰不極 伊胡爲慝
 訓読:豈曰はんや「極めざれ 伊(れ)胡(なん)ぞ慝トクを為さんや」と
 翻訳:何を言うか「深追いするな 悪いことなどするものか」と――『詩経』大雅・瞻卬

①はこれ以上は行けない所(最終点、最高点)まで行くつく意味、②はとことんまで突き詰める(きわめる)の意味で使われている。この意味の古典漢語をgiək(呉音ではゴク、漢音ではキョク)という。これを表記する視覚記号が極である。これは「亟(音・イメージ記号)+木(限定符号)」と解析する。亟が言葉の深層構造に関わる部分である。亟は口と又を省いた部分が古い字体で、「二(上下の二線)+人」を合わせた形。これに動作・行為を示す記号の口と又(手)を添えたのが亟。頭の上から足の下までたるみなく(踏ん張って)立つ情景である。この意匠によって、「端から端までたるみなく行き尽くす」というイメージを表す記号になる。このイメージを図示するとA←→Bの形、「AとBの間でぴんと張り詰める」というイメージ、またA→Bの形、「一方の端から他方の端まで行き尽くす」というイメージである。『説文解字』では「極は棟(むなぎ)なり」とある。棟木はA←→Bの形に屋根の端から端までたるみなく張り渡した木である。亟の「A←→Bの形に張り詰める」「一方の端から他方の端まで行き尽くす」というイメージが「棟木」という具体物の意味を実現させた。最古の文献である『詩経』などには棟木の意味は見えず、この意味は戦国時代の諸子の文献に出てくる。ただし極の最初の意味が棟木であった可能性は排除できない。
コアイメージによって意味は展開する。「端から端まで行き尽くす」というコアイメージから、これ以上は行けない所に行きつく(いたる)の意味、とことんまで突き詰める意味(極力・極言の極)、これ以上行けない最終点の意味(極限・究極の極)、これ以上はなく(きわめて)の意味(極大の極)、地軸などの両端の意味(南極・北極の極)などに展開する。