「近」

白川静『常用字解』
「形声。音符は斤。斤は鉞の類で、古い字形では止(足あとの形)と斤とを組み合わせた形である。近も往と同じような斤(鉞)に止(足)をふれて出発する儀礼である。都を中心とする王の直轄地を圻キというのは、近の儀礼をして行動する範囲をいう。それで近は都から距離的に“ちかい、ちかいところ” という意味となる」

[考察]
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。斤(鉞)+止(足)→鉞に足を乗せて出発する儀礼→都に近い直轄地まで行動の範囲が及ぶ→都にちかい所というぐあいに意味を展開させる。
疑問点①「斤」の項 では斤を斧の象形文字としている。本項では鉞とする。不統一である。②「往」の項で往を鉞に足を乗せて出発する儀式としている。往と近は同じ内容であるのになぜ意味が違うのか。③「鉞に足を乗せて出発する儀礼」とは何のことか。④都に近い土地がこの儀礼の行動範囲とはどういうことか。全く理由が分からない。
意味とはいったい何か。「言葉の意味」が意味であることは言語学の定義である。正確に言うと、言葉(記号素)は音と意味の結合体と定義される。意味は言葉に内在する観念であって、言葉以外に意味はない。
白川漢字学説は言葉という視点がない。だから形声の説明原理がなく、すべて会意的に説く特徴がある。会意の方法だと図形的解釈をストレートに意味とし、意味と図形的解釈を混同する傾向がある。白川は近の意味を「都から距離的にちかい」とする。これは図形の解釈をそのまま意味としたもの。
近はどう使われているか古典に尋ねてみよう。次の用例がある。
 原文:卜筮偕止 會言近止
 訓読:卜筮ボクゼイ偕(とも)にすれば 会(あ)はせて近しと言ふ
 翻訳:亀占いと筮竹占いを一緒にしたら 二つ合わせて「帰りが近い」と出た――『詩経』小雅・杕杜

この近は時間的に近いの意味だが、空間的に近いの転用である。近は「斤(音・イメージ記号)+辵(限定符号)」と解析する。斤が言葉の深層構造に関わる基幹記号であり、コアイメージを示す部分である。斤はどんなコアイメージがあるのか。382「斤」で述べた通り、斤は斧の伐採機能(木などを切る機能)に着目した言葉で、これを図形化して斤が生まれた。対象に刃を接近させて切ろうとするプロセスを図形にした。この意匠によって「限りなく対象に近づく」「僅かな距離まで近づく」というイメージを表すのである。したがって「空間的にちかい」の意味の古典漢語giən(呉音ではゴン、漢音ではキン)を近の図形で代替する。