「勤」
正字(旧字体)は「勤」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は堇キン。堇は𦰩(カン)と同じく飢饉に関係のある字である。堇は凶作のとき、頭上にᆸ(祝詞を入れる器の形)を載せた巫祝が前に両手を交叉して縛られ、火で焚き殺される形である。飢饉のとき、雨を祈って雨を降らせることができなかった巫祝はこうして焚き殺されたのである。力は耒(すき)の形。農耕につとめて飢饉を免れようと努力することを勤という」


[考察]
形声の説明原理を持たず、すべて会意的に説くのが白川漢字学説の特徴である。会意とはaの意味とbの意味をプラスした「a+b」をcの意味とする方法である。堇(巫祝を火で焼き殺す)+力(すき)→農耕につとめて飢饉を免れようと努力するという意味を導く。
疑問点①雨乞いに失敗したシャーマンを焼き殺す事実が存在しただろうか。焼き殺すシャーマンの頭上に祝詞を入れた器を載せるとはどういうことか。理由が分からない。②堇(焼き殺されるシャーマン)と力(すき)を合わせて、農耕につとめるという意味になるだろうか。合理性がない。
字形の解剖にも疑問がある。堇の上部は廿の形で、これは革の上部と同じで、ᆸとは全く違う。巫祝説は根拠がない。また堇は「𦰩+土」を合わせたもので、堇は𦰩から派生した記号である。同源ではあるが𦰩は漢・嘆・難を構成し、堇は僅・勤・謹・菫・槿・饉を構成する。𦰩と堇は音の違いがある。
字形から意味を導く落とし穴は図形的解釈と意味の混同である。図形的解釈をストレートに意味とすると、意味に余計な意味素が混入し、意味をゆがめる。ひどいことになると、あり得ない意味が生まれる。「農耕につとめて飢饉を免れようと努力する」という意味はあり得ない。勤が実際の古典の文脈でどのように用いられているかを見てみよう。
 原文:文王既勤止 我應受之
 訓読:文王既に勤めたり 我応じて之を受く
 翻訳:文王は既に力を尽くされた 私があとをお受けする――『詩経』周頌・賚

勤は力を尽くして励む(つとめる)という意味で使われている。この意味の言葉を古典漢語でgiən(呉音ではゴン、漢音ではキン)という。これに対する視覚記号を勤とする。これはどういう意匠をもつ図形か。
「堇キン(音・イメージ記号)+力(限定符号)」と解析する。堇は「𦰩+土」と分析できる。𦰩は「革+火」を合わせて、革をあぶって乾かしている図形である。乾くと水分が抜けて無くなる。だから𦰩は「乾く」のイメージのほかに、「尽きる」「わずか」「少ない」というイメージを表すことができる。𦰩に土を添えた堇は乾いた粘土のことであるが、これも「水分がなくなる」→「尽きる」というイメージを表すことができる(以上は233「漢」の項で既述)。したがって勤は力を出し尽くす状況を暗示させる。これが図形的意匠である。図形的意匠は意味と同じではない。「力を尽くして励む(つとめる)」という意味を暗示させるだけである。
勤は「尽きる」というのがコアイメージである。コアイメージが表層レベルに現れた用例もある。
 原文:用之不勤。
 訓読:之を用ゐて勤(つ)きず。
 翻訳:道の働きは尽きることがない――『老子』第六章