「訓」

白川静『常用字解』
「形声。音符は川。土地の祭祀のとき、神に唱えることばを訓といった。のち訓は“おしえる、みちびく、いましめ” の意味となり、さらに“よむ、よみとく”の意味となる」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなく、すべて会意的に説くのが特徴であるが、本項では川から説明できていない。だから形声としたが、字源の体をなしていない。「おしえる」から「よむ」への意味展開も不自然である。
訓の実際の用法を古典から見てみよう。
①原文:以臣召君、不可以訓。
 訓読:臣を以て君を召せば、以て訓(おし)ふべからず。
 翻訳:家来の分際で主君を召し出すのは、人に教えることができない[示しがつかない]――『春秋左氏伝』僖公二十八年
②原文:古訓是式 威儀是力
 訓読:古訓に是れ式(のっと)り 威儀に是れ力(つと)む
 翻訳:昔の教えを手本とし 威儀に大いに努めている――『詩経』大雅・烝民

①は筋道を説いて教える意味、②は筋を通した教えの意味で使われている。この意味の言葉を古典漢語ではhiuən(呉音・漢音でクン)という。これに対する視覚記号を訓とした。訓は「川(音・イメージ記号)+言(限定符号)」と解析する。川がコアイメージの源泉である。川という実体に焦点があるのではなく、その形態・機能に焦点がある。川は筋をなしているものであり、水を通すものである。だから「筋道を通す」というイメージを表すことができる(1070「川」を見よ)。かくて訓は、分からない物事をとき分けて、きちんと筋を通して分からせる状況を暗示させる。これが訓の図形的意匠である。これによって①②の意味をもつhiuənを表記する。
意味はコアイメージによって展開する。「筋道を通す」というコアイメージから、分からない言葉に筋を通す、つまり難しい言葉の意味を易しい言葉でときほぐすという意味に展開する。これが訓詁・訓釈の訓である。また日本では漢字(実は漢語)の意味を日本語に置き換えて読んだものを訓という。音だけでは理解できないので、意味を捉えて日本語として読むので、理解し易くなる。