「傾」

白川静『常用字解』
「形声。音符は頃。頃は上から降りて来る神を迎え、姿を正し、身をかがめて拝む形。身を前に傾けて礼をするので、頃にかたむくの意味がある。頃に人をそえた傾は、その神を迎えて拝む人の姿勢をいっそう明確にした形であり、“かたむく、かたむける” の意味となる」

[考察]
字形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法である。頃(降りて来る神を迎えて身をかがめる)+人→降りて来る神を迎えて拝む人の姿勢→かたむくという意味を導く。
頃が「かたむく」の意味があるというからには、傾も「かたむく」の意味とすれば十分なのに、「降りて来る神を迎え、身を前に傾けて礼をする」という余計な意味を付け加える。図形的解釈と意味の区別を曖昧にする、あるいは図形的解釈と意味を混同する、これが白川漢字学説の特徴である。
意味とは言葉の意味であって、字形にあるわけではない。意味は言葉に内在する概念である。言葉の意味はそれが文脈で実際に使われる際に読み取れるものである。文脈がなければ意味の取りようがない。傾は次のような文脈で使われている。
①原文:地何故以東南傾
 訓読:地は何の故を以て東南に傾くや
 翻訳:大地はなぜ東南に傾いているのか――『楚辞』天問
②原文:哲夫成城 哲婦傾國
 訓読:哲夫は城を成し 哲婦は国を傾く
 翻訳:賢い男が城を造ると 賢い女が国を危うくする――『詩経』大雅・瞻卬

①は斜めになる(かたむく)の意味、②はバランスを失って崩れそうになる(危うくする)の意味で使われている。この意味の古典漢語をk'iueng(呉音ではキャウ、漢音ではケイ)という。これを代替する視覚記号が傾である。「頃ケイ(音・イメージ記号)+人(限定符号)」と解析する。匕は人の鏡文字である。鏡文字は反対のイメージを示すことが多い。人は正常に立っている人の形である。正常に立つイメージは「|」の形であるが正常でないのは∠の形や∧の形である。人と反対の匕は∠の形や∧の形(斜め)に傾くというイメージである。だから「 匕(イメージ記号)+頁(限定符号)」を合わせた頃は頭をかしげる様子を表す。かくて傾は人が姿勢を斜めにかたむける情景を設定した図形。この図形的意匠によって①②の意味のk'iuengを表記する。
白川説では頃に「降りて来る神を迎える」という場面を設定しているが、そんな情報はどこにも含まれていない。だいたい「降りて来る神を迎える」とはどういう事態なのか定かでない。