常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2017年06月

「畑」

白川静『常用字解』
「国字。火と田とを組み合わせた形で、焼畑の意味となる」

[考察]
日本語の「はたけ」を表記するために創作された擬似漢字である。中国では名前に用いられた例(明代の文献)があり、偶然同形衝突した。畑は日本だけにある字ではないので、このような類を「半国字」と呼びたい(日本にしかない場合は「純国字」)。
日本ではぜ畑が創作されたのか。「はたけ」に当たる漢字がないからである。田」はあるが、これは陸田と水田を区別しない。日本語では「た」(水田)と「はたけ」(陸田)を区別する。だからわざわざ畑という擬似漢字を作って「はたけ」を表記した。陸田は耕す必要があるが、その前に雑草などを取り除く必要がある。引き抜く場合もあろうが、焼く場合もある。後者を想定して「火+田」を合わせた畑の図形が考案された。 

「爆」

白川静『常用字解』
「形声。音符は暴。暴は太陽にさらされた獣の死骸の形で、乾いてばらばらになっている形である。説文に“灼くなり” とあり、強い火で焼けてばらばらに散ることを爆という」

[考察]
暴が「太陽にさらされた獣の死骸」と言いながら、「乾いてばらばらになっている形」ともいうが、ばらばらになった獣の死骸を一つの図形に描くことができるだろうか。獣の死骸は一つの全形ではあるまいか。
暴が「ばらばらになった形」 というのは変である。そうすると爆が「火で焼けてばらばらに散る」というのもおかしなことになる。
白川漢字学説は形声の説明原理がなくすべて会意的に説く方法である。形声の説明原理とは言葉の深層構造から意味を考える方法である。白川漢字学説は言葉という視点がない(言葉を無視する)から、形声文字を説明できない。必然的に字形の表面をなぞって意味を取ろうとする。しかし意味とは「言葉の意味」であって字形(文字)にあるのではない。意味は言葉が使われる文脈からしか出てこない。
古典における爆の用例を見る必要がある。先秦の古典には見当たらず、漢代の文献に出てくる。
 原文:爆見兆。
 訓読:爆して兆を見(あらは)す。
 翻訳:[亀卜とは]亀を火で焼いてはじけさせて兆しを現すことだ――『白虎通』亀蓍
爆は火力で急にはじける意味で使われている。これを当時の漢語でpɔk(呉音でホク、漢音でハク)という。これを表記するために爆が作られた。
爆は「暴(音・イメージ記号)+火(限定符号)」と解析する。暴の分析は難しいが、『説文解字』などの伝統的な分析に素直に従うと、「日(太陽。日光)+出(出る)+廾(両手)+米(こめ、穀物)」となる。穀物を外に出して日光にさらす情景と解釈できる。「日+動物の全形+廾(両手)」で、動物の皮を日に乾かす情景と解釈できないことはないが、「さらす」「乾かす」ということにポイントがある。だから動物の皮であろうが穀物であろうが、実体に囚われる必要はない。暴は古典で「日にさらして乾かす」という意味で使われている。
「日にさらして乾かす」という言葉のコアイメージを捉えることが重要である。湿った物を乾かすと水分が蒸発する(目には見えないが想像できる)。これは「四方に発散する」というイメージに抽象化できる。暴をもとに成立する言葉(爆・曝・瀑など)にはこのイメージがコアにある。爆は火熱を加えて物が急激に四方にはじけて飛び散るという図形的意匠になっている。ちなみに瀑は水しぶきを飛び散らす滝を意味し、「四方に発散する」というイメージでは暴・瀑と共通である。

「縛」

白川静『常用字解』
「形声。音符は尃。尃は根を包んだ苗木を手に持つ形で、苗木の根を紐などで“しばる”ことを縛という」

[考察」
「根を包んだ苗木を手に持つ」ことからなぜ「しばる」の意味が出るのか。意味の展開に必然性がない。縛は単に「しばる」の意味で、苗木の根とは何の関係もない。
『釈名』(漢代の語源辞典)に「縛は薄なり。相薄著(ぎっしりと着ける)せしむるなり」 と正当に語源を説いている。薄は「くっつける」「迫る」というイメージがある(1491「薄」を見よ)。縛にもこのイメージがある。
縛は「尃(音・イメージ記号)+糸(限定符号)」と解析する。尃は「平らに敷き広げる」というイメージがあり、「表面が平らで薄く、下にくっつく」というイメージに展開する。尃は甫の「くっつく」「うすい」「平ら」の三つ組みイメージが根底にある(1490「博」、1491「薄」を見よ)。縛は紐を物の表面にくっつける情景。この意匠によって、縄などをぴったり当てて縛りつけることを表す。

「漠」

白川静『常用字解』
「形声。音符は莫。莫は艸(草)と艸の間に日(太陽)が沈んでゆく形で、暮のもとの字である。説文に“北方の流砂なり” とあり、ゴビ砂漠の意味とする。“さばく”の意味のほかに、“しずか、さびしい、ひろい”の意味にも用いる」

[考察]
莫は暮(日が暮れる)の意味で、漠はゴビ砂漠の意味だという。この意味展開は、ゴビ砂漠が日の暮れる北方にあるからというのであろうか(普通は日没は西方であろう)。しかしなぜ暮と砂漠が結びつくのか分からない。また、「さばく」の意味からなぜ「しずか、さびしい」の意味になるのか。砂漠は人気がないからというのであろうか。しかし意味展開に必然性がない。
白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説くのが特徴である。しかし本項では会意的な説明が不十分であり、字源の体をなしていない。形声の説明原理とは言葉の深層構造を掘り下げ、コアイメージを捉え、語源的に意味を究明する方法である。白川漢字学説は言葉という視点がないから形声文字の説明が原理的にできない。
漠は「莫(音・イメージ記号)+水(限定符号)」と解析する。莫は暮の原字で、「隠れて見えない」というイメージがある(「暮」「墓」などで詳説)。「隠れて見えない」というイメージを極端に抽象化すると「無い」というイメージに転化する。莫は「ない」という否定詞の用法がある。漠は一面に何も見えない所(砂原)を暗示させる。流砂を水に見立てて限定符号を水とした。
「見えない」「無い」というコアイメージから、何もない、とりとめがない意味(漠然)、だだっ広くて何も見えない意味(広漠)、物音がなくひっそりしている意味(索漠)に展開する。


 

「麦」
正字(旧字体)は「麥」である。

白川静『常用字解』
「会意。來(来)と夊とを組み合わせた形。來は麦の形。夊は止(趾あしあとの形)を逆さまにした形であり、麥は麦ふみをするの意味であろう」

[考察]
字形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法である。來(むぎ)+夊(逆さの足)→麦踏みをするという意味を導く。
麦に「麦踏みをする」という意味があるだろうか。あり得ない。図形的解釈と意味が混同されている。
麥には穀物のムギの意味しかない。それにしてもなぜ夊という記号を含むのか。これには深い訳がある。
甲骨文字・金文では「來+夂」となっている。夂は各の上部や降の右側にも含まれており、下向きの足である。これは降りて来る足、あるいは、やって来て止まる足である。
來とは何か。ムギの象形文字だということは古来の通説。ではなぜ「くる」の意味か。甲骨文字の段階ですでに「くる」の意味で使われている。ムギがなぜ「くる」の意味になるのか。
ムギの原産地は中国ではない。コムギやオオムギは太古に西アジア方面から中国に伝わった。『説文解字」に「周の受くる所の瑞麦は、天の来(きた)す所なり」とあるように、ムギは天(神)のもたらしたものという伝説があった。殷周の人たちはムギという穀物に対して天の賜物という意識があったようである。だからライという言葉は「もたらす」というイメージをもった言葉であったと考えられる。神がもたらすことから「やってくる」という意味が生まれた。賚ライ(もたらす、賜う)という語によく「もたらす」のイメージが残っている。
ムギは天(神)のもたらしためでたい穀物という観念があったので、「來(ムギの形)+夂(降りてくる足、あるいはやって来て止まる足)」を合わせた麥という図形が考案された。來にはムギという意味もあり、特にコムギを𪎌ライと書く。麥はコムギとオオムギを含めた名称である。 

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