「悪」
正字(旧字体)は「惡」である。
白川静『常用字解』
「形声。音符は亞(亜)。亞は地下の墓室の平面形。そこは死者の住む所であるから、生きている人にとっては快い場所ではなく、忌み謹むべき所である。その忌み謹む思いを悪といい、‘にくむ’ の意味となる」
[考察]
形声とあるが、意味の解釈は会意そのものである。亞と惡の音のつながり(語の関係)が分からない。むしろ音は無視されている。
字形から意味を導くのが白川漢字学説である。 亞は墓室(『字統』では玄室の意味とする)→忌み謹むべき所とし、忌み謹む思いの意味の惡が生まれたという。
字の形は意味をもつだろうか。だいたい意味とは何なのか。言語学では意味とは言葉の意味である。記号学的に言えば、記号素(意味をもつ最小単位)を成り立たせる二要素の概念・イメージの部分が意味である。
ソシュールによれば
能記(意味するもの、音声的要素)
記号素= ――――――――――――――――
所記(意味されるもの、意味的要素)
このような図式で表される。 音と意味が結合したものが言葉である。言葉の純化された単位を記号素という。
古典漢語では一音節のまとまりが言葉であり、これがそのまま記号素となる。一音節の記号素が漢字 一字で表記される。漢字を図形素と呼べば、漢字の図式は次のようになる。
音(能記の音声部分)
図形素(漢字、形)=――――――――――
義(所記の意味部分)
漢字に形・音・義の三要素があるというが、漢字に属するのは形だけで、音と義は言葉に属するものであることが分かる。
意味とは言葉の意味であって、形から意味が出てくるわけではない。では言葉の意味はどうやって分かるのか。古典の用例、すなわち具体的な文脈から意味を取ることができる。文脈における語の使われ方が取りも直さず意味である。用例がなければ意味もない。文脈に使われていない漢字の意味というのは推測に過ぎない。
形から意味を引き出す白川漢字学説は言語学的に誤りというほかはない。
では惡をどう解釈するか。字源の前に語源を究明し、更にその前に古典での使用例を見る必要がある。『老子』に次のような文章がある。
原文:上善若水、水善利萬物而不爭、處衆人之所惡。
訓読:上善は水の若(ごと)し、水は善く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処る。
翻訳:最高の善は水のようだ。水は万物に恵みを与えるだけで、争うことはしない。大衆のいやがる所にいる―― 『老子』第八章
いやがる、むかつく、要するに胸がむかむかする気分、嫌悪の悪(オ)である。相手をにくむ心理も胸がむかつく気分の一種である。気分がむかむかする→いやになる(にくむ、きらう)→いやな感じを与える(わるい、わるい事柄)と意味が展開する。
むかつく気分、いやな感じを表す古典漢語が・ag、また語尾が少し変化して・akという。この聴覚記号を図形化したのが惡である。「亞(音・イメージ記号)+心(限定符号)」と解析する。亞は音を暗示させると同時に、語のコアイメージを 表す記号である。亞と惡の関係は何であろうか。
亞はすでに述べたように「上から押さえつける」というコアイメージをもつ記号である(1「亜」を見よ)。亞は建物の基礎の図形であるが、実体そのものに重点があるのではなく、その機能、属性に焦点を置く。基礎は建物を上に載せる。だから「上から押さえる」とうイメージを表すことができる。実体にこだわると亞は墓室で、人の嫌う場所だから「きらう」という意味が出るといった解釈が生まれる。実体ではなく機能を重視するのが漢語の意味論の特徴である。亞はただ「上から下のものを押さえつける」というイメージだけが用いられるのである。形声の原理とはこれである。のっぺらぼうにA+B=Cとするのは従来の会意的解釈法だが、A×B=Cのように、Aのイメージから飛躍させてCにつなげるのが形声の方法である。例えば青の「汚れがなく澄み切る」というコアイメージを日(気象)の領域に限定したのが晴(はれる)であると解釈する。
「亞+心」でむかつく気分を表せるのか。何かよくないことに触れて、気分がわるくなることはしばしば体験することである。心理的には何かに押さえられて捌け口がないためにむかむかするような感じである。むかつく気分とはこのような重圧・抑圧に耐えきれず噴出させようとするが捌け口がなく出られない気分である。これは古今東西変わらない心理状態である。かくて古人は「上から押さえつけて上に出られない」というイメージをもつ亞とのつながりから惡という心理語を創造したのである。
正字(旧字体)は「惡」である。
白川静『常用字解』
「形声。音符は亞(亜)。亞は地下の墓室の平面形。そこは死者の住む所であるから、生きている人にとっては快い場所ではなく、忌み謹むべき所である。その忌み謹む思いを悪といい、‘にくむ’ の意味となる」
[考察]
形声とあるが、意味の解釈は会意そのものである。亞と惡の音のつながり(語の関係)が分からない。むしろ音は無視されている。
字形から意味を導くのが白川漢字学説である。 亞は墓室(『字統』では玄室の意味とする)→忌み謹むべき所とし、忌み謹む思いの意味の惡が生まれたという。
字の形は意味をもつだろうか。だいたい意味とは何なのか。言語学では意味とは言葉の意味である。記号学的に言えば、記号素(意味をもつ最小単位)を成り立たせる二要素の概念・イメージの部分が意味である。
ソシュールによれば
能記(意味するもの、音声的要素)
記号素= ――――――――――――――――
所記(意味されるもの、意味的要素)
このような図式で表される。 音と意味が結合したものが言葉である。言葉の純化された単位を記号素という。
古典漢語では一音節のまとまりが言葉であり、これがそのまま記号素となる。一音節の記号素が漢字 一字で表記される。漢字を図形素と呼べば、漢字の図式は次のようになる。
音(能記の音声部分)
図形素(漢字、形)=――――――――――
義(所記の意味部分)
漢字に形・音・義の三要素があるというが、漢字に属するのは形だけで、音と義は言葉に属するものであることが分かる。
意味とは言葉の意味であって、形から意味が出てくるわけではない。では言葉の意味はどうやって分かるのか。古典の用例、すなわち具体的な文脈から意味を取ることができる。文脈における語の使われ方が取りも直さず意味である。用例がなければ意味もない。文脈に使われていない漢字の意味というのは推測に過ぎない。
形から意味を引き出す白川漢字学説は言語学的に誤りというほかはない。
では惡をどう解釈するか。字源の前に語源を究明し、更にその前に古典での使用例を見る必要がある。『老子』に次のような文章がある。
原文:上善若水、水善利萬物而不爭、處衆人之所惡。
訓読:上善は水の若(ごと)し、水は善く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処る。
翻訳:最高の善は水のようだ。水は万物に恵みを与えるだけで、争うことはしない。大衆のいやがる所にいる―― 『老子』第八章
いやがる、むかつく、要するに胸がむかむかする気分、嫌悪の悪(オ)である。相手をにくむ心理も胸がむかつく気分の一種である。気分がむかむかする→いやになる(にくむ、きらう)→いやな感じを与える(わるい、わるい事柄)と意味が展開する。
むかつく気分、いやな感じを表す古典漢語が・ag、また語尾が少し変化して・akという。この聴覚記号を図形化したのが惡である。「亞(音・イメージ記号)+心(限定符号)」と解析する。亞は音を暗示させると同時に、語のコアイメージを 表す記号である。亞と惡の関係は何であろうか。
亞はすでに述べたように「上から押さえつける」というコアイメージをもつ記号である(1「亜」を見よ)。亞は建物の基礎の図形であるが、実体そのものに重点があるのではなく、その機能、属性に焦点を置く。基礎は建物を上に載せる。だから「上から押さえる」とうイメージを表すことができる。実体にこだわると亞は墓室で、人の嫌う場所だから「きらう」という意味が出るといった解釈が生まれる。実体ではなく機能を重視するのが漢語の意味論の特徴である。亞はただ「上から下のものを押さえつける」というイメージだけが用いられるのである。形声の原理とはこれである。のっぺらぼうにA+B=Cとするのは従来の会意的解釈法だが、A×B=Cのように、Aのイメージから飛躍させてCにつなげるのが形声の方法である。例えば青の「汚れがなく澄み切る」というコアイメージを日(気象)の領域に限定したのが晴(はれる)であると解釈する。
「亞+心」でむかつく気分を表せるのか。何かよくないことに触れて、気分がわるくなることはしばしば体験することである。心理的には何かに押さえられて捌け口がないためにむかむかするような感じである。むかつく気分とはこのような重圧・抑圧に耐えきれず噴出させようとするが捌け口がなく出られない気分である。これは古今東西変わらない心理状態である。かくて古人は「上から押さえつけて上に出られない」というイメージをもつ亞とのつながりから惡という心理語を創造したのである。
コメント
コメント一覧 (20)
私の基本的な考えは、ブログ主さまと全く同じで、字源解釈に起こりがちな論点先取りを、非科学的なものとして、もう一度考え直したいというものです。
古典的な図式としては、<概念>を表すために聴覚記号があり(自然言語のレベルに相当します)、さらに聴覚記号を指し示す記号として書記記号(いわゆる文字です。文明や社会制度的な条件がそろって現れる)が二次的に現れるとされています。
この考えによると、あたかも<概念>が、音声記号に先行して存立しているかのような印象を与えますが、その辺を批判したのはソシュールで、音声記号とその<意味>とは不可分だという考えだったと思います。
ですが、字源学の立場では、概念が先か、音声記号が先か、という言語哲学的な問題は、当面関係がありません。つまり、ここでは、「音声記号が、ある意味を指し示す」という言い方を用いても、真の意味の字源学には差し支えないと思います。(蛇足ですが、前世紀には、このように意味が媒介物なしでそのものとして現れるような発想は、たいへん批判を受けました。)
漢字が、音声記号よりずっと遅れて登場し、すなわち話し言葉よりずっと遅れていたのは明らかです。それにもかかわらず、漢字が成立して、初めて意味と言語が邂逅したかのような印象を与える自称「字源学」は百害あって一利なしだと思います。
私の言い方では、意味 ⇦ 聴覚記号 ⇦ 視覚記号 という言い方がいちばんスッキリしていると思います。⇦ は、表象する関係を表しています。
私の考えでは、古来中国語はアジアにいくつか存在する一音節言語の一つですから、漢字は、その一音節の単語そのものを指し示し、その代理となるという考え方がいいと思います。
むろん、中国語にも熟語があり、二音節で単語のように振る舞うものも多くありますが、こと漢字の起源の解釈となりますと、釈迦のような音訳字を除けば、漢字はもっぱら<単語>を指し示していたと考えていいのではないでしょうか。
漢字が我が国に流入したころの漢字音、すなわち中国語での単語は、母音だけ、あるいは 子音+母音、あるいは、子音+母音+子音 になっていて、ある意味英語にも似ています。ちょうど、一音節の英単語である sing や、song に、象形文字を与えようとすれば、当時の漢字の制作のイメージの助けになるでしょう。
あくまで例えですが、cup のような発音の中国語の単語が、例えば甲などは、「カップ」ではこそないものの、「カフ」などと音訳され、それが後代日本語的に「コウ」と変化していきました。
語末の子音は、破裂音の t , k などは比較的現在でも残っており、t は「質」の「ツ」、k は、「各」の「ク」など、いたるところに残っています。「吉」のキチや、「罰」のバチなどのように、なかば日本語化したものもあります。
語末の子音は、現代中国語ではなくなったもようです。
従来の文字学(漢字学)は科学的とは言えませんが、ほかにも問題があり、意味論の分野が最も遅れています。文字学には「言葉」という視座がないから当然かもしれません。
漢語意味論の確立は急務です。私は語源・字源とともに意味論を考えています。意味を捉える方法として「コアイメージ」という概念を使っています。コアイメージは言葉の深層構造をなすイメージで、深層構造が表層に現れるのが「意味」という考えです。表層とは具体的文脈です。言葉が具体的文脈で用いられる、その使い方が意味です。具体的文脈がなければ意味は無い。具体的文脈に使われていない「意味」は想像的、架空の意味でしかありません。「漢字の意味」と称するものにはこれが実に多いのです。
コアイメージについてはいろいろ問題があるかもしれません。言語学的にはどうでしょうか。ご意見いただければ幸いです。
「意味論」という用語は、数理系がらみの特殊な分野をなしていますから、別の用語がいいかなと思います。ですが、仰りたいことはわかります。
漢字の科学的な起源の解明が急務だというのは同感です。
私の考えでは、ヨーロッパ言語の歴史の解明は、執念という言葉がふさわしいほど進んでおり、また、科学性の面でも非常に優れています。具体的に言えば印欧祖語(PIE)から現在のヨーロッパの諸言語への歴史的推移が、詳細にわたり解明されています。
漢字の起源の研究も、「言葉」という視点にこだわる限り、まず中国語そのものの歴史と不可分でなければなりません。
私は、漢字を言葉からとらえるというさいに、まず<単語>という、ある意味当たり前の単位を重要視しています。
そして、ヨーロッパ言語の起源の解明が一つのモデルとなると思います。つまり、古代中国語においても、単語の推定、または同定が課題になると思います。そして、おっしゃっている「コアイメージ」が、一つの単語の複数の語義を規定するものなのか、あるいは複数の単語をひとまとめに包括するものなのか、その辺りを科学的に究明しなければなりません。
back は、一般的な後方の意味にも用いられますが、「背中」の意味にも用いられます。例えばの話ですが、多義の単語を表現するさいに、この「背中」の意味のように特殊な場合に、とくに(漢字表現はおいては)「にくづき」のような意符が用いられた可能性もあります。
英語の sing と song のように、派生関係のある単語が、古代中国語にも存在していたと思います。入声にして、派生語を形成したような例もあるでしょう。それが、文字の割り振りではどのように扱われたのか、それが私の関心でもあります。
> 現在の段階で、一つの漢字が複数の単語に当てはめられたことは、容易に推定できることです。一方、咲字や笑字のごとく、同一単語に別の文字が適用された例もあるとおもいます。単語と漢字の関係は、「一対一」とは言えません。
その際「コアイメージ」という概念が役に立つと考えています。藤堂明保は「基本義」という用語を使い、大野晋は「原義」という用語を使っていますが(『岩波古語辞典』)、コアイメージはイメージであって義(意味)ではありません。対象世界を切り取りして音声に載せて言語化する際に物や事を大づかみに「イメージ」として感覚(感知)する、その原初的なもの、根源的なもの、これがコアイメージと考えています。観念論みたいに聞こえますが、人間の認識の当然の働きではないでしょうか。こんなコアイメージを漢語から捉えることができるのか、これが問題です。
漢語の意味論では後漢の頃から「AはBなり」という形式で、同源関係を述べる書物が現れました(『説文解字』や『釈名』など)。例えば「要は約なり」とあります。どちらも「締めつける」というイメージのある語です。要は「(中心に向けて)締めつける」、図示すると→〇←の形や→〇の形と想定できます。このコアイメージを想定すれば要の転義の諸相がうまく説明できます。本義は多分「こし(腰)」ですが、要点の要、要約の要、要求の要などがうまく説明できます。三つ(あるいは三つ以上)の語が要にかぶさっているのではなく、一語の展開と考えます。
「要」字はまさに、的確な例だと思います。日本語では、たとえば「むね」などに相当するでしょうか。
語の多義性には、一般的な傾向があります。物質的・肉体的な意味から、精神的な、抽象的な意味への転移です。多くの言語の、多くの語でそれは起こっています。古典漢語でも、それは例外ではないと思います。肉体的な腰の意味から、抽象的な「かなめ」の意味に転じたのでしょう。
さしあたっての疑問は、要と、腰字の、平仄の違いです。つまり、発音上、違いがあるのか、あるとすればいつ頃それは分化したのかというてんです。
もう一つは「要は約なり」について、これはおそらく発音上の関連も示したものだと思いますが、これにどれだけ科学的信憑性があるかです。たとえば、要(エウ)を入声化すると「約」と同じになるのでしょうか? あるいはただ「学ぶとは、マネブこと」のような、わりと俗流の(正しいとも正しくないとも言えない)語源論をいったものなのでしょうか?
いま私のものには、藤堂先生の漢和辞典もありませんし、ほとんど調べようもない状態です。まさか、ブログ主さまのような、私の「同志」とお話ができるとは、ついぞ思いませんでした。これからもよろしくお願いします。
「要は約なり」は当時(後漢の頃)の人たちの語源意識の表明と考えられます。中には俗説めいたものもありますが、参考にすべきものは多々あります。
藤堂明保によれば要の上古音は・iɔg、約は・iɔkで、語尾の交換によって二語が成立したと考えられます。つまり同根の語の二形態です。音の類似、コアイメージの類似から、「要は約なり」の語源説が現れたものでしょう。古人の語源説とはいえ、確かな根拠があると思います。
藤堂明保は語尾の交換による同根語を「形態基」という概念を用いて、「単語家族」としてグループ化してます。例えばKUG、KUK、KUNGは一つの形態基で、「穴」という基本義をもつ単語家族というものです。KUGには「口」「喉」など、KUKには「谷」など、KUNGには「空」「孔」「肛」「腔」などの漢字が属し、すべて「穴、空所」という基本義をもっているというのです(『漢字語源辞典』)。私はこれが古典漢語の意味世界、表記体系の謎を解き明かす基本理論と考えています。
なお要と約は・ÔG、・ÔKという形態基、「細く引き締める」という基本義をもつ単語家族で、ほかに腰・邀・繳・竅がこれに属するとしています(同書、272~273ページ)。
ただ、私は漢語に特有だとされる「コアイメージ」を用いての語源説明については、批判的です。漢語と言えども、ごく普通の、人類一般の言語にみられるメタファーによる派生義の発生や、派生語の形成がなされたと考えるのが自然だと思います。
また、メタファーといっても、やはり視覚イメージや、運動のイメージを基礎としているのであって、ことさら「コアイメージ」を提案しても、新しく創造的な何かを提案しているわけではないと思います。たとえば、喜びのメタファーは、言語にかかわらず上昇志向を伴うことがおおく、記号的に表現すれば、↑ のようになります。これば、コアイメージと、何ら変わるところがありません。
あえて言えば、コアイメージは、メタファーを動機づける何かではありませんが、抽象的であり、実証性に欠けます。
さらに、漢語に限って、一般の諸言語のメタファーとは異なる原理で、派生義や派生語が作られたとは、考えにくいのです。
私は、あくまでも漢語は、ごく普通の普遍的な語形成によって語彙を増やし、派生義を増やし、それに従って二次的なかたちで漢字がわりふられたと考えています。
漢語は、音声言語としては、英語や日本語と同じく、ごくありふれた言語だと思います。それが私の原点です。
漢語の場合「作」は「切れ目を入れる、手を加える」がコアイメージで、「①初めて物を作る、②手を加えて何かをする。AをBにする。Aが変化してBになる」と意味が展開すると考えます。英語のmake、日本語の「つくる」、漢語の作に共通なものは「手を加えて何かをする」というイメージで、これが取りも直さずコアイメージと考えます。コアイメージの概念はかなり抽象的ですが、実証は可能ではないでしょうか。
意味展開の原理としてメタファーは重要ですが、漢語の場合はメタファーだけでは説明仕切れないものがあります。例えば要の場合、「かなめ」の意味は「腰」のメタファーでしょうが、要求や要約はメタファーからは説明しにくいと思います。説明できない意味はたいてい仮借でかたづけられますが、もしコアイメージの概念を導入すればスムーズに意味の説明ができます。コアイメージは意味展開を説明するのにふさわしい概念(作業仮説?)と考えます。漢語の意味世界の見通しをよくすると考えます。
make のように、単語が単一に同定されれば、それに種々の派生義があることは自然です。おそらくそれは「コアイメージ」にもとづいて、自ら意味を豊かにしていったのでしょう。
いっぽう、そのような単語の多義化の事態は、その視覚記号化(つまり漢字を当てはめること)とは、いちおう独立して起きた事象だと思います。つまり、それは固有の文字を持たなかった日本語においても、普通に起こっていたことで、文字によって媒介されるか否かなかかわらず、普遍的に起こっている言語学的事象であります。
ここで、「類似した意味は、類似した音で表される」ことは、要するに「ありふれたこと」とみなさなければなりません、この時点では、漢字が関与するかどうかは、全く関係ないのです。
私の文章からは、わかりにくいかもしれませんが、「類似した意味は、類似した音で表される」ことが、文字の出現以前、あるいは、文字をもたない言語でもごくありふれた出来事だとするならば、字源の研究においても、その類似意義・類似音の原理は、中心的な意味をもたないのです。
私の言いたいことは、字源の解明でさえ、かなりの苦労があると思うんですよ。あるいは、それを白石氏の誤解から救うだけでも。
コアイメージの解明となると、それはさらに千年を遡り、字源解明からは別レベルの問題となるような気がしますね。
ちょっと調べてみると、上代漢語の復元はけっこうすすんでいるようです。上代漢語には、声調がなかったもようです。私がやりたい作業は、実質的に、その当時の単語の推定であり、さらに単純な意味で、その単語にどの漢字が当てはめられたのか、という事実です。
「衣」は、名詞と動詞で声調が異なっていますが、「衣」の字は共通で使われています。私はこのような事実を集積していくことが重要だと思います。言葉足らずで申し訳ないのですが。
「形態基はその配下に多くの形態素(注ー記号素)を擁する親概念であり、古代人の脳中に蓄えられていた単語家族の抽象的な一々の型であった」(『漢字語源辞典』63ページ)
藤堂は223の形態基を立て、これに所属する漢字を単語家族と呼んでいます。223が上代の「ことば」の総数と考えてよいかと思います。これが多いか少ないか問題があるでしょう。漢語ということばの展開を次のように推測することも考えられます。
だいたい200あまりの原語(形態基)があり、これの音素のレベルで少し変形することによって単語(記号素)が形成され、これに文字表記(漢字)を作っていった。
このような三段階の歴史を経て漢字が出現した。このように推測されます。
上代漢語には、語頭に二重子音が起こることもあり、監の音が clam と推定されています。このことは、形声文字の日本語の漢字音について、k と r の交替がしばしば観察されること(濫 や洛のように、声符の k が、 r に転化するなど)は、二重子音 cl のどちらかの脱落かもしれません。当て推量ですが。
日常でよく使う基礎語彙ですね。これが200余語。「形態基」と数が近いのは偶然でしょうか。問題はスワデシュ基礎語彙が普遍性をもつ(歴史を超える)かどうかです。現代を古代にもあてはめられるのかどうか。
「形態基」は記号素の抽象形態で、基礎語彙はその中に含まれる可能性もありますが、基礎語彙など多くの記号素を成立せしめる原型のようなものだと思われます。また「意味をもつ最小単位」が記号素ですが、「形態基」は意味そのものではなく、意味を実現させる概念のようなものと考えられます。
「形態基」と基礎語彙については検討課題にしたいと思います。
まず、一般的な言語学の用語として、意味をもつ最小単位は<形態素>と呼ばれます。多くの場合、単語は形態素としては現れますが、接頭辞や接尾辞は、独立した形態素として現れます。よって、形態素のほうが単語より、小さな単位ということになります。
なぜ形態素ではなく、形態基という語を用いたか、これが一つのポイントです。学術的には、オッカムの剃刀で表されるように、無用の仮説は避けなくてはなりません。
もう一つ、kano 先生が、記号ではなく、なぜ記号素という語を用いたのかも、一つのポイントとなるでしょう。
形態素は、実体は音です。自然言語は、つまるところ、音が正体です。漢語は、単語が基本的に一音節ですから、形態素と言えば、事実上、単語だと思います。
私は、形態素(単語)以上に<遡行>することは、学術的な研究を台無しにする危険が孕んでいると思いますね。
そこは私が、コアイメージにも違和感を感じる理由でもあります。
ソシュールは確かに人類の言語そのものの起源を探りましたが、我々のやってることは、etymology(語源学)です。二千年前、三千年前の発音を推定し、当時の単語とその意味を推定するのです。これは、人類言語の発生論のような哲学的な議論とは、アプローチがかなり違うと思います。それゆえ、記号素などという術語は無用だと思います。記号のレベルで十分だと思います。
もしかして漢字が記号であるから、漢字に先行する存在は<記号素>なのでしょうか? それは、違います。漢字に先行するのは、ただの音声記号であり、ただの単語です。文字がなかった頃の日本語の、「やま」や「かは」と同じです。
そろそろ文字数制限かなと思いますので、ちょっと切ります(^_^;)