「音」
白川静『常用字解』
「会意。言と一とを組み合わせた形。言は、神に誓い祈る祝詞を入れた器であるᄇの上に、もし偽り欺くことがあれば入れ墨の刑罰を受けるという意味で、入れ墨用の針(辛)を立てている形で、神に誓って祈ることばをいう。この祈りに神が反応するときは、夜中の静かなときにᄇの中にかすかな音を立てる。その音のひびきは、ᄇの中に横線の一をかいて示され、音の字となる。それで音は“おと”の意味となる。音とは神の“音ない(訪れ)”であり、音によって示される神意、神のお告げである」
[考察]
形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法である。わずかな情報から壮大な物語を構想している。
言は辛(針) と口を合わせた図形。これから「もし偽りがあれば入れ墨をするぞと辛を立てることによって、神に誓って祈ることば」という意味が導かれる。言に一を加えたのが音。祈りに神が反応すると夜中の静かなときにかすかな音を立てる。だから音は神の訪れであり、神のお告げという意味。
このようにまとめてよいだろう。だが疑問点が多い。①祈りの言葉に偽りがあると入れ墨の刑罰が下されるというのが分からない。なぜ入れ墨か。誰が入れ墨をするのか。神か、神主か。宗教国家だとすると、王が刑罰を下すのか。②祝詞を器に入れるとはどういうことか(口で唱えるはずの祝詞が文字で書かれるのはなぜか)。器の上に針を立てるとはどういうことか。状況が浮かばない。③なぜ神は夜中の静かなときに反応するのか。器の中にかすかな音を立てるというような事態がありうるのか。④一という符号で音を示すことができるのか。⑤音に神の訪れ、神のお告げという意味があるのか。数々の疑問が浮かぶ。
意味とはいったい何か。図形的解釈から意味が出てくるのか。これは白川漢字学説に対する根本的な疑問である。
言語学では言葉(記号素)は能記(意味するもの、聴覚心像)と所記(意味されるもの、概念・イメージ)の結合したものと定義される。意味は言葉に属するものであって、文字にあるわけではない。文字は言葉を視覚記号に換えて表記するものである。漢字は所記(意味的要素)のレベルで図形化した文字なので、意味のイメージが図形に反映されるが、あくまでイメージを図形で暗示させるのであって、意味そのものではない。
白川漢字学説は形の解釈と意味を混同している。その結果、余計な意味素が紛れ込むか、あるいは、あり得ない意味が導かれる。その原因は白川漢字学説では言葉という視点が欠けているからである。漢字を理解するには言葉を抜きにしては手落ちである。
漢字で表記される言葉は古典漢語(古典で使用される言葉)である。音はどのように使われているかを調べてみる。
原文:燕燕于飛 下上其音
訓読:燕燕于(ここ)に飛ぶ 下上する其の音
翻訳:つばめが飛ぶよ 上がったり下りたり 音を出しつつ――『詩経』邶風・燕燕
この文脈では鳥の発する「おと」だが、生物の鳴き声だけでなく、物の発する響きを古典漢語では・iəmという。これは聴覚記号である。視覚記号化されて「音」という図形が考案された。ここから字源の話になるが、語源を考えないと、恣意的になるか(勝手な解釈)、迷宮に入ってしまう(解釈がつかない)。
古人の語源説では『白虎通義』などに「音は飲なり」とある。飲むという意味ではなく、音と飲インが同源だというのである。古人の語源意識は参考すべきである。飲む行為は、飲食物をいったん口に入れてこぼれないようにふさぎ、次に喉にぐっと押し込む。この一連の動作の前半に視点を置くのがiəm(飲)という言葉で、「中に入れてふさぐ」というコアイメージがある。飲と音は全く同音で、音も同じコアイメージをもつ言葉と考えてよい。
ここで字源を考える。音は「言」の「口」の中に「–」の符号を入れた図形である。これをどう解釈するか。言葉は口から出る。その口に「–」の符号を入れる。何らかの物を口に入れると、もぐもぐとなってまともな言葉にならない。つまりウーウーといった唸り声になる。要するに意味をなさない唸り声である。言葉ではない物の響きを「音」の図形で暗示させるのである。「言」は意味のない連続した音声を切り取って(分節化して)、意味をもつ音声にしたもの、すなわち「ことば」を表すが(489「言」を見よ)、「音」は言葉にならない(意味をもたない)「おと」を表すのである。
白川静『常用字解』
「会意。言と一とを組み合わせた形。言は、神に誓い祈る祝詞を入れた器であるᄇの上に、もし偽り欺くことがあれば入れ墨の刑罰を受けるという意味で、入れ墨用の針(辛)を立てている形で、神に誓って祈ることばをいう。この祈りに神が反応するときは、夜中の静かなときにᄇの中にかすかな音を立てる。その音のひびきは、ᄇの中に横線の一をかいて示され、音の字となる。それで音は“おと”の意味となる。音とは神の“音ない(訪れ)”であり、音によって示される神意、神のお告げである」
[考察]
形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法である。わずかな情報から壮大な物語を構想している。
言は辛(針) と口を合わせた図形。これから「もし偽りがあれば入れ墨をするぞと辛を立てることによって、神に誓って祈ることば」という意味が導かれる。言に一を加えたのが音。祈りに神が反応すると夜中の静かなときにかすかな音を立てる。だから音は神の訪れであり、神のお告げという意味。
このようにまとめてよいだろう。だが疑問点が多い。①祈りの言葉に偽りがあると入れ墨の刑罰が下されるというのが分からない。なぜ入れ墨か。誰が入れ墨をするのか。神か、神主か。宗教国家だとすると、王が刑罰を下すのか。②祝詞を器に入れるとはどういうことか(口で唱えるはずの祝詞が文字で書かれるのはなぜか)。器の上に針を立てるとはどういうことか。状況が浮かばない。③なぜ神は夜中の静かなときに反応するのか。器の中にかすかな音を立てるというような事態がありうるのか。④一という符号で音を示すことができるのか。⑤音に神の訪れ、神のお告げという意味があるのか。数々の疑問が浮かぶ。
意味とはいったい何か。図形的解釈から意味が出てくるのか。これは白川漢字学説に対する根本的な疑問である。
言語学では言葉(記号素)は能記(意味するもの、聴覚心像)と所記(意味されるもの、概念・イメージ)の結合したものと定義される。意味は言葉に属するものであって、文字にあるわけではない。文字は言葉を視覚記号に換えて表記するものである。漢字は所記(意味的要素)のレベルで図形化した文字なので、意味のイメージが図形に反映されるが、あくまでイメージを図形で暗示させるのであって、意味そのものではない。
白川漢字学説は形の解釈と意味を混同している。その結果、余計な意味素が紛れ込むか、あるいは、あり得ない意味が導かれる。その原因は白川漢字学説では言葉という視点が欠けているからである。漢字を理解するには言葉を抜きにしては手落ちである。
漢字で表記される言葉は古典漢語(古典で使用される言葉)である。音はどのように使われているかを調べてみる。
原文:燕燕于飛 下上其音
訓読:燕燕于(ここ)に飛ぶ 下上する其の音
翻訳:つばめが飛ぶよ 上がったり下りたり 音を出しつつ――『詩経』邶風・燕燕
この文脈では鳥の発する「おと」だが、生物の鳴き声だけでなく、物の発する響きを古典漢語では・iəmという。これは聴覚記号である。視覚記号化されて「音」という図形が考案された。ここから字源の話になるが、語源を考えないと、恣意的になるか(勝手な解釈)、迷宮に入ってしまう(解釈がつかない)。
古人の語源説では『白虎通義』などに「音は飲なり」とある。飲むという意味ではなく、音と飲インが同源だというのである。古人の語源意識は参考すべきである。飲む行為は、飲食物をいったん口に入れてこぼれないようにふさぎ、次に喉にぐっと押し込む。この一連の動作の前半に視点を置くのがiəm(飲)という言葉で、「中に入れてふさぐ」というコアイメージがある。飲と音は全く同音で、音も同じコアイメージをもつ言葉と考えてよい。
ここで字源を考える。音は「言」の「口」の中に「–」の符号を入れた図形である。これをどう解釈するか。言葉は口から出る。その口に「–」の符号を入れる。何らかの物を口に入れると、もぐもぐとなってまともな言葉にならない。つまりウーウーといった唸り声になる。要するに意味をなさない唸り声である。言葉ではない物の響きを「音」の図形で暗示させるのである。「言」は意味のない連続した音声を切り取って(分節化して)、意味をもつ音声にしたもの、すなわち「ことば」を表すが(489「言」を見よ)、「音」は言葉にならない(意味をもたない)「おと」を表すのである。
コメント